誠にありがとうございます。
久しぶりなので、
何を書いていいのやら^^;
考えがまとまらずにいましたが、
「誰かの役に立とうとしなくていい」というテーマで書きます。
不自然な「誰かの役に立ちたい」=承認欲求
誰かの役に立つとうれしい。
誰かに喜んでもらえるとうれしい。
この感情は自然な感情です。
しかし、これが条件付きだと話が変わります。
相手にとって価値のある行動をした時だけ喜ばれる
役に立たなかった時、
喜んでもらえなかった時、
それだけで落ち込んだり悲しんだりします。
無条件に肯定されずに育つと起こりやすいです。
過去の出来事は変えられないので、
自分で思考のトレーニングをするしか方法がありません。
相手に合わせることもなければ、
相手の期待に応えようとすることもない。
相手の反応のために頑張る必要もない。
これに気付けないままでいると、
心を満たすための依存が始まります。
- アルコール
- お菓子
- タバコ
- ギャンブル
- 買い物
- 名声
依存している時は気持ちがいいですが、
少し時間が立つと不安が芽生える。
この繰り返しに悩まされることに……。
仕事に置き換えて考えてみる
世の中には、
目に見えて誰かの役に立つ仕事がたくさんあります。
- 医療
- 介護
- 教師
- 弁護士
- 消防士
- 警察官
「ありがとう」と言われやすい仕事であり、
一般的にも人のために役立つ仕事というイメージが強いと思います。
(同じくらい罵声を浴びさせられることもあると思いますが^^;)
仕事はこれ以外にも数え切れないほど存在しています。
「ありがとう」なんて言われないことの方が圧倒的に多いです。
(その際たるものが報酬ゼロの家事ではないかと)
でも、どうでしょうか?
人の役に立っていないと感じるからモヤモヤする。
なかなかないのでは?
誰かの役に立とうと思って仕事をする人って、
あまりいないはずです。
ありのままで十分
『アナと雪の女王』ではありません!笑
頑張っていなくても、
役に立とうとしなくても、
そのままで十分に認められているんですよね、
私たちは。
そんなことはない!
そう思っているのは自分だけで、
もうビックリするくらい小さなことまで見てくれている人が必ずいます。
私の経験を2つ。
中学の合唱コンクールの練習時。指揮者の男子がうまく指揮を振れないので、私が歌いながら小さく指揮のマネをしていた。それを副担任の先生が見ていて、母が学校に行った際にこの時のことを話してきたようで、「〇〇先生が褒めてたよ〜」と言われた。私は彼の役に立とうと思ったわけでもなく、無意識に手が動いていただけのことだった。先生の目には助けているように見えたそう。
スーパーのサッカー台にカゴを置きっぱなしにしていく人がたまにいる。私は「なんで自分で片付けないんだ(怒)」と思いながら片付けるのだが、それを見ていた店員に「いつもありがとうございます」と言われた。
こんなもんです。
誰かの役に立とうと思っていなくても、
自分の行動を認めてくれている人は必ずいます。
知らないうちに役に立ってます。
だから、自ら誰かに認められようとしなくてもいいんです。
そのことに気付ければ、
だいぶ肩の力は抜けます。
承認欲求の裏側には
「親に認めてもらいたい」が潜んでいることが多いです。
親が子に対して条件付きで褒めたり喜んだりするのは、
無条件に肯定するのが下手なだけなんですよね〜。
私の伯母がそうです。
従姉のやることなすこと全て否定してます。
無条件肯定ができない人の心の奥には、
不安や劣等感が潜んでいます。
だから、うまく肯定できません。
「認められたい」。その気持ちは自然ですが、
相手がトレーニングをしない限りは変われないので、
認められようとしないこと。
自分が不安や劣等感を拭い、
人をありのままに愛せる人になってください。
そうすると人との関係もスムーズになって、
不自然な「役に立ちたい」という気持ちは減ります。
吉田洋さん主演の『生きるとか死ぬとか父親とか』にハマってます。うちとは全く別のストーリーですが、家族ってこんなもんよねと思いながら笑
血がつながっているとはいえ、他人だから、光も陰もありますよね。隣りの芝生は青く見えるだけで、100%うまくいっている家族なんて幻想なんじゃなかろうか?